サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ



天才ワナビーの中の人オススメ。参考文献がまとめられてていい。定期的に読むと発見がある本、という予感。

「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」。(中略)現代の心理学と関連諸学の歩みを50年、100年のスケールでおおづかみに理解しようとするとき、浮かび上がってくるのはこのような「セントラル・ドグマ(中心教義)」です。
(p.4)

  • これを中心にして、エピソード形式で話を進めていく。というのも、

もし本当に「認知過程の潜在性」のドグマが正しいとすると、そのドグマと今日の時代の人間観との間には、無視できないズレとひずみが生じているということに、私は気付いた
(p.6)

  • からだそうな。そのひずみを読み取っていくのが正しい読み方か。

何をもって「本当の」理由というのか。「本当である」ことの検証の方法は何か。その方法は、行動科学・精神科学と他の自然科学では、違うのか同じなのか。実はこの点が、この本の裏のテーマとなります。
(p.14)

  • 科学の方法論。本当のこととは何か?それをいかにして判定するか?
    • 判定するのが人間であるからさらにアレやな

認知的不協和理論(中略)の骨子だけ要約しておきましょうか。
個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつの「認知」があるとき、認知的不協和と呼ばれる深いな緊張状態が起こる。そこで当然、それを解消または低減しようとする動機付けが生じる。しかし多くの場合、外的な要因による「認知」のほうは変えようがないので、結果として内的な「認知」のほうが変わる。つまり態度の変容が起こる。
(p.24)

  • この「バランス」の取り方が、後付け理由にも思えてしまう。予測は可能?

解剖学的な限界容量として、たとえば脳内のシナプス神経細胞同士の間の情報伝達機構)が参考になります。これは10^15=1000兆(1000000000000000)個以上という説があります。その根拠は、約10^11(100億)個のニューロンがあり、そのそれぞれが平均10^4あるいは10^5個のシナプスをもっているからということです。ただしこれは脳の可能な容量の上限を与えるだけであって、この容量のすべてを脳が活用していると考えるのは非現実的です。
(p.66)

  • 数。だいたい。

右眼が左半球に、左眼が右半球に投射するのではなくて、右視野が左半球に、左視野が右半球に投射する
(p.69)

  • 左右の視野、重なっている部分があるが、真ん中で分けられて、各半球に送られる。

つまり、右半球系は資格情報に基づいて触覚的同定課題を遂行することが出来ますが、その課題遂行を自覚的にモニターし、言語報告することができません。他方左半球系はその(左手の)ふるまいを見て、何が起こっているかを推測します。言ってみれば、右半球と左手は患者の「知らないうちに」知的にふるまって課題を解決してしまうのであり、そのとき左半球の言語系は「隣人」の勝手なふるまいにとまどっているかのようにふるまうのです。
(p.75)

  • 混乱しがちな左右の半球議論をわかりやすくまとめている。
  • 言語化できない=真実ではない、という落とし穴に気をつける。真実って何だよ

外から観察し、原因を推論し、後付けで何かに帰する、そうしたプロセスによって「統合された単一の自己」という幻想を与えるようになるわけです。
(p.81)

  • 幻想に注意。

この(カクテル・パーティー効果: ざわめきの中、自分の名前が出た時だけ反応する)奇妙なパラドクスを解決するほとんど唯一の解釈は、自覚されないがある程度の処理を行っている「前処理」過程を想定することです。
(p.140)

  • 貴重な情報が入ったらチャンネルを切り替える。
    • この「前処理」を意識的に設定できれば便利(Gmailのフィルターみたいに)

潜在知覚の研究は、一部の知覚心理学者・社会心理学者・臨床心理学者らを巻き込んで、その後幾度かブームになり、また下火となるということを繰り返してきました。そして実は今、何度目かのブームを迎えているのです。
(p.143)

  • そう考えるとおもしろい。研究手法も変わってきたのだろう

閾下知覚あるいは潜在知覚の証拠には、3通りくらいあります。そして閾下の「見えていない」条件の下で、それでも後の知覚や行動に効果があることを、何らかの間接的な方法で示しています。

(p.160, 改変)

  • 科学的方法論。うまいこと考える人がおるもんやな。よく読む。

「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するに過ぎない」。これが、私の支持する命題です。
(p.169)

  • 見えないものも知っている。

親近性効果=単純提示効果(しつこいほど繰り返して知覚したものには好ましい感情を抱く)については、私たちの研究室でも最近少し調べているのですが、きわめて「頑健」で「再現性の高い」効果です。
(p.194)

  • 単純な繰り返しの効果。

もう一歩突っ込んで言うと、「どの程度自由か」という問題である以上に、人間の「自由」とはいったい何なのか、という問題です。主観的な「自由」とか「自発的な意志」というフィーリングは、どういうメンタル・プロセスに支えられているのか。(中略)それは当然、より社会的な意味での「責任」や「倫理」という概念とも、深い関わりを持つはずです。
(p.208)

  • 哲学的、というか言葉の定義の問題になってきた

裁判や犯罪の様々な事例は、現行の社会的倫理・規範の体系が、これまで見てきた「潜在的」人間観とは必ずしも相容れないものであり、またそれ自体、必ずしも明快に一つの原理で割り切れないものであることを示していると思います。
「自分のことは自分が一番よく知っている」、「自分は基本的には自分の思うとおりに行動できる」。そうした信念は「すみずみまで自覚化できる意図によって、ひとつに統一された自己」という、いわば共同幻想に基づくものです。
(p.278)

  • 訓練によって潜在意識をどこまで自覚化できるか、というところに興味がある

しかし目的的行為論における「行為」概念には、過失行為には適合し得ないという大きな問題があります。つまり、罪に問うためには、過失行為における目的性の存在証明が必要となるのです。先に「視線」の例でも述べたように、「潜在的目的性」という考えが自己矛盾をはらんでしまいます。また目的性の選択にまつわる問題も生じます。不作為犯の場合、つまり「行為しない」行為にまつわる問題です
(p.280)

  • こんがらがってきた。えらく微妙な例になりそうだが

立花隆氏は1970年代の一連の論考の中で、はやくも近代文明の依って立つ人間観の崩壊を予感されています。その徴候は、諸々の末期的な社会現象と科学、とりわけ生命科学の最先端との奇妙な一致の中に、はっきりと見いだされると言います。たとえば、都市に急増する子殺しと類人猿のそれ。アレルギー性疾患のような免疫系の病気の多発と、自己免疫疾患に見られる生体の「自己像」の破壊。
(p.289)

  • 近代文明とはいつからを言うのだろう。これまで人間像の崩壊は起こってきた?そのときはどうなった?