日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で/水村美苗(2008)

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

言うまでも無く、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を賭けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。(p.52)

この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。(p.59)

そもそも日本文学の存在が世界に知られたのは、日本が真珠湾を攻撃し、慌てたアメリカ軍が敵国を知るため、日本語ができる人材を短期間で養成する必要にかられたのが一番大きな要因である。(p.101)

...ほかならぬ、<書き言葉>とは<話し言葉>を表したものだという(誤った)前提である。
それは<書き言葉>の本質を見誤っているだけではない。それは、まずは、人類の歴史そのものを無視したものである。人類が文字というものを発見してから約六千年。そのあいだ、人類はほとんどの場合、自分が話す言葉でそのまま読み書きをしてきたわけではなかった。人類はほとんどの場合、<外の言葉> -- そのあたり一帯を覆う、古くからある偉大な文明の言葉で読み書きしてきたのであった。そして、それらの、古くからあるい偉大な文明の言葉は、地球上のあちこちにいくつかあった。
それが本書で言う<普遍語>である。(p.105)

(本書で使う言葉の定義)

普遍語
universal language. 読み書きに使われる、古くからある偉大な文明の言葉。
現地語
local language.
国語
national language

右の(ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』の)要約に倣ってこの最初の三章を、一言で要約すれば、次のようになるであろう。
"<国語>は自然なものではない。"(p.108)

『想像の共同体』がいまだ必読書とされているのは、この本の核心をなす冒頭の分析が、今なお意味を持っているからであり、その核心の部分とは、<国民国家>の成立にあたり、<国語>と<国民文学>とナショナリズムとがいかに結びついていたかを分析している部分にほかならない。(p.114)

アンダーソンの立場は多言語主義とよばれるものである。英国帝国主義なるものに反対するヨーロッパの知識人の典型的な立場であり、いくつもの言葉がぶつかりあうことによって豊かな文明を気付いた歴史を持つヨーロッパでは今でも根強い。(p.117)

私は、<普遍語>とは、<書き言葉>と<話し言葉>の違いを最も本質的にあらわすものだと考えている。<話し言葉>は発せられたとたんに、その場で空中にあとかたなく消えてしまう。それに対して、<書き言葉>は残る。だが、<書き言葉>がたんに物理的に残るというだけでは意味がない。(p.122)

このように考えていけば、<普遍語>が、なによりもまず、「学問=scienceの言葉」なのは、あたりまえであろう。今、英語の「science」という表現は、「科学」というせまい意味で使われる。だがそれは、もとは、ホモ・サピエンスにある、サピエンス(sapiens)と同様、「叡智を身につける」「知恵を持つ」「知っている」などという意味のラテン語の動詞「sapere」からきている。(p.128)

実際、<学問>と<文学>が分かれたことによってよりはっきりと見えてきたのは、この世の<真理>には二つの種類があることにほかならない。読むという行為から考えると、それは、<テキストブック>を読めばすむ<真理>と、<テキスト>そのものを読まねばならない<真理>である。(p.152)

日本では平安時代に一度科挙制度を導入しようとしたが長続きせず、この失敗が結果的には幸いした。日本は科挙制度から自由であったがゆえに、二重言語者の男たち、しかもことに頭脳明晰な男たちが、漢文の優秀な使い手となるための熾烈な競い合いを繰り広げる必要 -- 漢文の<図書館>にことごとく吸い込まれてしまう必要がなかったからである。(p.169)

ヨーロッパでは、教会の権威のもとで、ラテン語という<普遍語>の<図書館>に、二重言語者の読書人が、一千年にわたって吸い込まれていたのである。(p.173)

翻訳という行為の根底には、常に、もっと知りたいという人間の欲望 -- 何とか<普遍語>の<図書館>に出入りしたいという人間の欲望がある。(p.186)


(「文学の終わり」の)歴史的な根拠とは何か?

1. 科学の急速な進歩: 客観的にわかる知識を知るほうがずっと意味を持ってきている。
2. <文化商品>の多様化: 新技術による文化(CD, DVD, GAME, INTERNET)により相対的に紙媒体が薄くなる。
3. 大衆消費社会の実現: 本にある<文学価値>と<流通価値>という二つの価値の間の差を広げてしまった。要するに流行のバカ化

英語の世紀に入ったとは何を意味するのか。
それは、<国語>というものが出現する以前、地球のあちこちを覆っていた、<普遍語/現地語>という言葉の二重構造が、再びよみがえってきたのを意味する。(p.239)

  • 学問の言葉が英語に一極化
  • ネットの出現により地理的な制約も取り払われた。

英語という<普遍語>の出現は、ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。そして、いうまでもなく、<テキスト>の最たるものは文学である。(p.253)


英語教育、3つの方針(現状無策。)
1. <国語>を英語にしてしまうこと
2. 国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
3. 国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。
(p.267)

英語の世紀に入った今、非・英語圏において、英語に吸い込まれていく人は増えていかざるを得ない。英語に吸い込まれていくのは、<叡智を求める人>だけには限らない。国際的なNPONGOで働き、世の役に立ちたい人も英語に吸い込まれていく。たんにより豊かな生活をするため、より高い収入を求める人も英語に吸い込まれていく。英語など興味も無いのに仕事によって吸い込まれていかざるを得ない人もいる。
非・英語圏の<国語>にとっての、さらなる悲劇は、英語が出来なくてはならないという強迫観念が社会の中に無限大に拡大していくことにある。(p.285)

学校教育を通じて多くの人が英語を出来るようになればなるほどいいという前提を、まさに、学校教育の場において、完璧に否定する。(p.289)

しつこく強調するが、この先五十年、百年、最も必要になるのは、<普遍語>を「読む」能力である。(p.289)

国語教育の理想を「すべての国民が書ける」ところに設定したということ、国民全体を<書く主体>にしようとしたということ -- それは、逆に言えば、国語教育の理想を「<読まれるべき言葉>を読む国民を育てる」ところに設定しなかったということである。(p.302)

日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。(p.317)