坂の上の雲(四)
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/01/10
- メディア: 文庫
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十二インチ砲弾というのは,飛んでくるのが見えるものなのである。日本の砲弾はロシア砲弾とはちがい、独特の形をしていた。ロシア水兵たちは、その異様にながい形を、
「旅行カバン」
とよんでいた。しかもこの砲弾の爆発力は、ロシアの砲弾のそれとはくらべものにならない。
日本の砲弾は,下瀬という無名の海軍技師の発明したいわゆる下瀬火薬が詰められている。この当時、世界でこれほど強力な火薬はなかった。その爆発によって生ずる気量は普通の砲火薬の二倍半であったが、実際の力はいっそう強猛で、ほとんど三倍半であった。
しかもこれを詰めた日本の砲弾は、水に衝突しただけで炸裂した。巨大水柱が、海をわきあげさせながら、こげ茶色の煙と炎をともなってあがる光景は、異様というほかなかった。
(p.55)
ところが、こういう状況下で動き回っていた高橋に、ありうべからざる幸運が向こうから接近してきた。
たまたまロンドンにきていたアメリカ国籍のユダヤ人金融家ヤコブ・シフという者が、積極的に高橋に近づいてきて、
「あなたの苦心はかねて聞いています。私にできる範囲で、多少の力になってあげましょう」
と申し出てくれたのである。
..........(p.161)
敵よりも大いなる兵力を集結して敵を圧倒撃破するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄味はそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタ−トを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模範しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。
(p.246)