論理哲学論考 / ウィトゲンシュタイン

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

1. 「世界は事実であることの全てである」
" Die Welt ist alles,was der Fall ist."
2. 「事実であること、すなわち事象は諸事態の存立である」
" Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten."
3. 「事象の論理像が思想(思考対象)である」
" Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke."
4. 「思想は有意義な命題である」
" Der Gedanke ist der sinnvolle Satz."
5. 「命題は諸要素命題の真理関数である」
" Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsaetze."
6. 「真理関数の一般形式は[\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]である」
" Die Allgemeine Form der Wahrheitsfunktion ist : [\bar p,\bar\xi, N(\bar\xi)]"
7. 「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
" Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen."

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえわれわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られ得ず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語) の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
世界と生とはひとつである。
私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
思考し表象する主体は存在しない。 (中略)
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
(p.114-116)

世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。――かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
価値の名に値するものがあるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。
それを偶然ではないものとするのは、世界の中にある何ごとかではありえない。世界の中にあるとすれば、再び偶然となるであろうから。
それは世界の外になければならない。
(p.144)

私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気付く。そのようにして私の諸命題は解明を行なう。(いわば、梯子をのぼりきったものは梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。
(p.149)