ドグラ・マグラ (上)


ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)
ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)夢野 久作

おすすめ平均
starsすごい小説
stars謙虚な本
stars貴重な時間
stars当時最先端の精神病学
starsこれからもこれ以後も現れないであろう幻想の大作

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すなわちこの論文は、人間が、母の胎内にいるわずか十ヶ月の間にひとつの想像を超越した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき数億年、ないし数十億年の長時間にわたる連続活動写真の様なもので、、、(中略)
この論文「胎児の夢」の一篇は、われわれの頭脳の記録に残っていないみごもり時代のわれわれの夢の内容を、われわれ成人の肉体、および精神の至る所に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も斬新な学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。...のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明のごときは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも明け暮れ仰望し、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含していることがあきらかに認められるので、本編の主題たる「胎児の夢」の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分化してきたならば、おそらく将来の人間文化に大革命が与えられはしまいかと思われるくらいである。(中略)
...私は確信する、この「胎児の夢」の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、いわゆる、博士論文なぞとはとうてい、比較にならないほどの高級、かつ深遠な科学的価値を有する発表である。むろん、今期当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術がいかにして生まれてきたか...偉大な真理が、その発表の当初において、いかに空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ。
(p.113-)

われわれが常住不断に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞというものの一切合切は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おなじように籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒ごとに洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一段に過ぎないのだ。
(p.210)