脳男

「脳神経科と精神科というのはどういう違いがあるんだね」
真梨子はフォークをもてあそびながら適当な答えを探したが、ふとハーバードで同じクラスだった学生が言った言葉を思い出した。
「脳神経医学は死と戦うための医学、精神医学は生と戦うための医学、ですわ」

(p.65)

しかし、その光景を確かに見はしたものの、それを見ているものが自分自身だという認識はなかった。なぜなら視覚上の体験には主体的な身体活動が伴わないからだ。実際には光を受容する網膜、そこに映った光の分布を情報として処理する大脳皮質、それをつなげている視神経などの活動がなければ視覚体験は成立しないが、大脳皮質の視覚野は網膜に映った光の位置をそのまま位置情報として処理するから、そこには情報の受容、言語情報への変換、分析という一連の過程が介在しない。視覚は物事を一瞬にして把握するのだ。そのため、見るという行為においては主体の認識が希薄になる。
それに対し聴覚は、いや、「見る」以外のすべての経験は、いったん言語野にとりこまれ、アナロジーとして表出されてはじめて意味のある情報となる。その脳内過程が意識と呼ばれるものだ。

(p.90)

いったん意識を獲得した人間はきわめて短時間に思考をはじめる。意識は自己言及という形で意識にもられた内容を検証すると同時に、それが蓄えられた経緯を想起しようとするからだ。この想起が思考と呼ばれる活動に他ならない。

(p.92)

「大半の人間が、おれがおれでありつづけているのは感情などという低級なもののせいではなく、難解な思想や気高い信念を持つからこそだと思いたがるけど、思想も信念もただの言葉よ。言葉というのは他人のもので、わたしたちはそれを勝手気儘に剽窃してきてそれを組み立てたり壊したりしているにすぎない。いくらでも更新できるし、消去することもできるわ。その証拠に、思想や信念を変更しても自己はもとの自己であり続ける。それに反して感情は、気分や気持ちといったものだけど、途切れることがない。そうでしょう。わたしはこう考えているの。感情表出障害の人たちが約束やルールというものを過度に偏重するのは、彼らには自我をまとめあげるはずの感情の力が弱いための補償作用ではないか、と。つまり、彼らは社会が決めた約束事や規則から外れると、自分を見失ってしまうような気がするんじゃないかしら」

(p.199)