坂の上の雲(六)
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/02/10
- メディア: 文庫
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第一軍は黒木、第二軍は奥、第三軍は乃木希典、第四軍は野津道貫で、この四個軍しかない。それぞれ、階級は陸軍大将であった。その下に、いくつかの師団や、特別編制の旅団をもっている。師団長は中将、旅団長は少将であった。
(p.60)
- いっぺん図にしてみないと、まだこんがらがってる
日本軍にとって幸福だったことは、好古の頭脳が大局を見渡せる能力を持っていることであった。かれの左翼が崩れれば、全日本軍が崩壊することを知っており、死守だけが唯一の戦略目的であることを知っていた。
「死守」
というかれの場合の困難さは、その担当正面を考えても明白である。三十キロにおよぶ正面であった。三十キロの正面をまもるには六、七個師団を必要とするというのが、戦術上の常識であった。それをわずか八個連隊でまもっているのである。「常識」からみれば十分の一の兵力であった。
(p.68)
- 引かないという意思で留まり続けた結果、ロシア側の政治や司令官の性格などの外的要因が勝利を呼んだ。
- 決死とはこのことか。
もともと戦争というのは、
「勝つ」
ということを目的にする以上、勝つべき態勢をととのえるのが当然のことであり、ナポレオンもつねにそれをおこない、日本の織田信長もつねにそれをおこなった。ただ敵よりも二倍以上の兵力を集中するということが英雄的事業というものの内容の九割以上を占めるものであり、それを可能にするためには外交をもって敵をだまして時間かせぎをし、あるいは第三勢力に甘い餌をあたえて同盟へ引きずりこむなどの政治的苦心をしなければならない。そのあとおこなわれる戦闘というのは、単にその結果にすぎない。
(p.87)
- 政治。会社や社会で生きていくにしても、実力があれば良いというわけではなく、うまく立ち回って下地を整えることが間接的に成果へとつながる。
- この認識が近年のコミュ力過剰評価につながっているのかとも思う
日本海軍は潜航艇などという新兵器をもっていなかったが、ロシア人たちはそうは思わなかった。旅順艦隊がああもきれいに沈められてしまったことについては、謎の力を日本海軍がもっているのだろうという想像で、その想像図は潜航艇のかたちをしていた。
(p.92)
- ロシアの敗因。政治の不安定、海軍の妄想力、陸軍の神経質。
- 言い回し好き
「明石はおそろしい男だ」
と、明石の味方であるはずの東京の参謀本部でさえ、明石という男を不気味がるむきもあった。性格が、そうであった。目的にむかって周到に配慮し、構想し、実行についてはあらゆる機会をのがさず、機敏に行動し、ほとんど狂人のようにすすんでゆくというこの性格は、すべての成功者がそうであるように偏執的でさえあった。
(p.174)
- ロシアの革命を引き起こした明石という男。その成果は海軍あるいは陸軍そのものに匹敵する
- 変人であり同時に目的達成に偏執的なほど執着する。
多くの革命は、政権の腐敗に対する怒りと正義と情熱の持続によって成立するが、革命が成功したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる。革命の火をもやした正義の人も情熱の人も、革命権力の中軸をにぎった集団から排除され、最大の悪罵をもって追われ、殺され、権力者が書かせる革命史においても抹殺されるか、ロシア革命におけるトロツキ−のように奸物としてしか書かれない。
(p.199)
- 革命は変化。変動。変動と安定。システムを構築してしまうと変動因子は不要となる。
- 生かす方法はなかったのか。その例はないのか。
- チェ・ゲバラ。
もし私が日本人であったなら、乃木将軍を神として仰ぐであろう。
(p.244)
- 観戦武官、英国陸軍ハミルトンのことば
- 乃木の後年の評価はその成果にしては過大だが、一因としてその性格、オーラがあったのだろう
秋山真之が、戦後すぐ、この無線機の発明者である木村駿吉博士へお礼の電報をうち、あとあとまで、
「通信機に関するかぎり、日本海軍のひとり舞台だった」
と語っていたほどに、その性能がすぐれていた。
(p.270)
- 日本軍はヘンなところで秀でてるな。他に火薬や小銃、白兵戦など
この時期までの世界の海軍というのは艦隊同士の決戦といっても、軍艦と軍艦とがてんでばらばらに叩きあうというのが実情で、艦隊自身が、作戦原理をもち、各艦隊がラインダンスのように足並みをそろえて動き、それぞれの機能と特性をもつ戦術が、それぞれの目的をあたえられて動きつつ艦隊そのものの総合目的のなかで機能化するというようなことを考えたのは、すくなくとも実戦者としては日本海軍が世界で最初であった。
「円戦術」
というものを考えついたのは、いま鎮海湾で「笠置」の艦長をしている山屋他人であり、山屋が後輩の秋山真之の存在を知って研究をやめ、真之を激励する側にまわり、日本海軍そのものが戦術研究のいっさいをこの天才にまかせきったときに、世界で最初に、艦隊決戦の戦術というものが成立するのである。
(p.285)
- 天才かっこいいです><